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お出迎え
皆様、ようこそ西安にお出でになりました。長い旅、本当にお疲れ様でした。私はガイド兹通訳朱栄と申します。これから、皆様の西安のご滞在中、お世話をさせていただきますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
論語に「朊あり、遠方より来る、また楽しからずや」とありますが、今私の気持ちは全くその通りでございます。私は弊社を代表致しまして、皆様のご来訪を心より歓迎致します。何か要望や不行き届きな点などございましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。
皆様の西安の旅がこの上なく、楽しいものとなりますよう一生懸命努めてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
皆さん、西安はなんと言いましても悠久の歴史を持っている中国最古の都でございます。紀元前11世紀の西周から、秦、漢、隋、唐など約十三の王朝がこの一帯2000年にわたり都をおきました。特に唐の時代の長安は、様々な国からたくさんの人々がこの長安に集まり、当時としては最大の「100万都市」として栄えました。有名なシルクロードの出発点はこの西安でございます。これから、***を見学していきましょう。
大雁塔と大唐芙蓉園
皆さん、西安の名所旧跡の中では一番にあげられるのは大雁塔です。大雁塔は日本の皆さんにもなじみの西遊記に書かれた玄奘三蔵と関係があります。唐時代の高僧玄奘は、さかのぼること629年に生まれ、27歳の時、長安から西域への旅に出ました。そして、16年に経った657年に仏舎利や仏像、そして多くの経典を携えて長安に戻りました。玄奘は、その後大慈恩寺の住職となり、仏教に力をつくしました。唐の太宗と高宗はこの功績をたたえ、そのことは当時の書道家楮遂良の手によって石碑に刻まれ、今もそれが大慈恩寺の中の大雁塔に保存されています。この寺は、唐の高宗李冶が、母親文徳皇后の冥福を祈って648年に建てたものといわれ、西安の南郊外にあります。当時、この寺は現在の7倍以上の広さをほこり、今では大雁塔だけになりました。大雁塔は当初、五重の正方形のものでしたが、その後、レンガで7重にし、775年には、さらに十層のものに改築されました。今皆さんご覧になっている高さ63mの大雁塔は七層ですが、これは後の戦争で上の三層が崩れ落ち、残った下の部分を修復したものです。
ところで、皆さんは大雁塔が建てられた由来をご存じでしょうか。
玄奘がインドから多くの経典を持ち帰ったことは先に申しあげましたが、玄奘はそれを翻訳し、それを保存するために、当時の太宗皇帝に進言して654年建てられたのが大雁塔です。初めは慈恩寺塔と呼ばれ、それを大雁塔と呼ぶようになったひとつの説を紹介しますと、『慈恩寺三蔵法師伝券三』によりますと、「摩掲陀国に、ある寺があり、ある時、雁が群れをなして、空を飛んでいたところ、突然そのうちの一羽が境内に落ちて死んでしまった。これを見て驚いた僧侶たちはその雁を菩薩とみなし、その雁をとむらうために塔を建てた」ということです。
こうして、慈恩寺塔は雁塔と呼ばれるようになりましたが、その後、薦福寺にも「雁塔」が建てられたため、慈恩寺のものは「大雁塔」、薦福寺のほうは規模が小さかったから、「小雁塔」と呼ぶようになりました。なお、現存する大慈恩寺の中の建物は大雁塔を覗いて明の時代のものですが、お寺の大雂宝殿には、釈迦如来の三身仏と十八羅漢、法堂には阿弥陀仏の像が祭られています。法堂の東側の壁には玄奘の拓本がかけてあり、これを見ますと玄奘法師が、一所懸命仏教に身をささげた様子が伺い知ることができます。また、塔身の南側には、唐の太宗皇帝李世民の勅令による、「大唐三蔵聖教序記」の石碑が嵌め込まれ、いずれも唐代の大書道家楮遂良の手による傑作として知られています。さらに、塔の入り口のところに刻まれている唐代の建築図案は、中国古代建築を研究するうえで、重要な資料を提供するものといわれ、大雁塔の北に位置する、最近新しく建てられた玄奘三蔵院には三蔵法師の頭の骨や自筆の経典が納められています。
このように、「大雁塔」は現在、最もよく保存されている唐代の建物ですが、古都背西安のシンボルとしていつまでも人々の心に残り続けることでしょう。
大唐芙蓉院は西安の曲江新区に位置しており、敷地面積は約66万平方㍍、その中、水域面積は300平方㍍を占めます。中国の西北地域で最大の文化公園です。
華清池
皆さん、前方の右側をご覧ください。山が見てきましたね。その山はどんな形に見えますか?そうですね、遠くから見ると青い馬のように見えます。ですから、驪山を名づけられています。驪山の麓にある華清池は私たちの目的です。
皆さん、いよいよ華清池に到着します。この温泉と風景の美しさで有名な華清池は3000年あまり前に発見され、歴代王朝により離宮や浴槽を作られました。毎年、寒さを避けるため皇帝はここを訪れました。唐の玄宗皇帝と楊貴妃によりロマンスが有名ですが。絶世美人楊貴妃が美し肌を洗った様子は白居易の「長恨歌」にも歌われています。なお、お湯遺跡博物館は楊貴妃を使った海棠湯をはじめ蓮花湯、太子湯、尚食湯、星辰湯などの温泉の遺跡が発見できます。ちなみに、湯殿の奥にある五間庁は西安事件の時将介石が泊まったところです。ここもあわせてご案内致します。
はい、華清池に着きました。ここでの見学は2時間となっております。今ちょうど9時ですから、11時に必ずバスに戻ってきてください。ここは観光実は多いですから、できるだけ一緒に行動するようお願いいたします。万が一道に迷ったら、ご自分でバスにお戻りください。だから、バスナンバーとバスの色をよく覚えておいてください。では、貴重品をお持ちになって、バスを御降りください。はい、皆さん、お手洗いへ行きたい方はどうぞ、そちらへ。
はい、じゃ、華清池の観光ルートは飛霜殿、九龍池、お湯遺跡博物館、それから階段を登って西安事件の舞台である五間庁です。皆さん、参りましょう。
ここは玄宗皇帝と楊貴妃の寝室―飛霜殿です。冬になるた玄宗皇帝は楊貴妃をつれて華清池へ寒さを避けに来ます。この飛霜殿に源泉に引き込んであっため冬でも暖かく屋根には霜も付かないということから「飛霜殿」と呼ばれます。ここぁら驪山の美しい風景が眺められるし、それに、雪が降ると周りは全部白くなり、飛霜殿の前の九龍池には温泉が湧いて、湯気が立ち上がりますので、とてもきれいです。もちろんこれは今立て直されたものです。白居易の『長恨歌』の中に楊貴妃の風呂上りを「春寒くして、浴を賜う(たまう)華清池、温泉の水溜(みずため)らかにして凝脂(ぎょうし)を洗う。死児たすけ起こせば嬌(きょう)として力無し」と書いてあります。じゃ、皆さん、御湯遺跡博物館へ参りましょう。そこには楊貴妃が入った浴槽があります。蓮花湯は先に申しあげましたが、楊貴妃の浴槽は海棠の花の形をしているので、海棠湯というのです。ちょっと見た目は今の浴槽ほど豪華ではないですが、その時は大理石でつくっていますから、豪華なはずですよ。
次の見学するところへ移動しましょう。ここは五間庁といって、西安事変の時蒋介石はここに泊まりこんでいました、1936年12月、ここにいた二人の将軍に檄(げき)を飛ばすため西安にきました。12日朝5時突然の銃声で目を覚ました蒋介石は着の身着のまま逃走しましたが、山腹(さんぷく)の岩陰に隠れているところを張学良の護衛兵に捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉されました。ここの五間庁にその時の銃弾にうたれた跡が残っています。
皆さん、これで華清池の見学が終わりました。ちょっと10分間休憩しましょう。写真を撮りたい方は撮ってください。10分後車の方へ戻ってください。
兵馬俑
秦の始皇帝陵は西安の東36kmのところにあります。その壮大の墳墓は2200年ほど前に作られ、中国史上初めての皇帝のお墓で、世界でも最大級のものです。秦の始皇帝は紀元前259年に生まれました。13歳の若さで王位につき、紀元前221年に中国統一という大事業を成し遂げましたが、中央集権政治を实施し、文字や貨幣、度量衡を統一したほか、北方の騎馬民族対策に長城を築くことはあまりに有名です。一方専制君主として人民に苛酷な負担を強いることになり、ついに始皇帝の死後、大規模な農民蜂起もあって、秦王朝を滅亡しました。
ところで、始皇帝陵は始皇帝は即位する当時に作り始めました。そのため、動員図70万人述べ、实に、38年間わたる巨大な土木工事でした。それについて、有名な司馬遷も「史記」の中に建設規模と豪華さに触れています、それによると、「三たび水脈達する深くほり、銅版を下に敷い柩を納めるようにし、また、この陵の中宮殿、望楼を作り、百官の席を設け、奇器、奇物でいっぱいにした。百の川、大海を作り、機械の仕掛けて絶えず、水銀が流れるようにした。上の方は太陽、天体の形を作り、下は山、川、地の形を整えた」と記されています。この陵墓の壮大は最新技術を使った、今の調査結果でもそう確かめられています。
もう一つ、今日の目的である「兵馬俑博物館」はこの陵から1.5km離れたところにあります。「兵馬俑」は、1974年に用水工事をしていた農民たちが偶然発見したもので、「兵馬俑」とは、兵士や馬の形をした土偶のことですが、始皇帝陵の死後、陵に埋められ、いわば始皇帝の近衛兵というべきものです。
今のところ、兵馬俑は現在三つ発掘されていて、その総面積は20000㎡にものぼろスケールの大きいものです。陶俑と陶馬は8000代、木造の戦車は100両ほど、青銅製の兵器は40000件も見つかっています。さらい感心させられたことは、实物大の兵士が一体ずつ表情や髪型が違い、どれ一つとも同じものはありません。このことから、秦の軍隊が様々な民族から編成された混成部隊だったことがわかります。このように、兵馬俑は、兵士の指先や靴底まで繊細に作られていて、馬の鬣や尾までもリアルに再現さてれているのを目の当たりすると、当時に千人以上だったといわれる職人のこだわりが感じられます。こうして、秦の始皇帝陵全体としては、この兵馬俑坑のほかにいろいろなものが発見され、最近の発掘では兵馬だけでなく、宮殿の实物大のレプリカや文官や芸人などの俑も発掘されており、従来、来世へと旅立った始皇帝を守るための軍隊と思われていたこの遺跡は、实は、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうをするねらいがあったとも推測さらています。
兵馬俑一号館
1979年10月にオープンした一号館は始皇帝兵馬俑館最初の建物です。東西230m、南北62mの長方形をしていて、発見された三つの俑坑の中では規模の最も大きいものです。1000あまりの兵隊の俑、戦闘馬車とそれを牽引する馬の俑32体が出土しました。一号館の兵馬俑は歩兵を中心とした主力部隊ですが、先頭は武士俑が並び、ついて歩兵と戦車の隊列が続き、その左右両側と後ろにはそれぞれ1列ずつ武士俑が配置されています。
皆さん、これらの兵馬俑はよくご覧になっていただくとわかりますが、兵士たちは、その容貌だけでなく、朋装もくらいによって、それぞれ違います。最も目立ったのは将軍俑で、将軍は先端を巻いている高い冠をかぶり、これをとめるためリボンが顎の下で丁寧に結ばれ、胸まで格好よくたらしています。また、戦闘朋も二枚着ており、鎧も独特な形をしていて両肩と胸のところでリボンで結ばれています。現在、ここでの発掘はまだ継続中で、埴輪の数は推定で6000体ぐらいあるだろうと推測されています。
兵馬俑二号館
昔、戦争では陣立ては勝負を決める重要な要素でした。軍事家たちが多くの陣立ての形を考えました。しかし、その内容がずっと最高の軍事秘密で現在その記録がほとんど残っていません。
1976年、最初に発見されました兵馬俑坑の周りを発掘したところ、その北側から大量の俑が新たに発見されました。これは現在の二号館で展示されている兵馬俑です。
二号館の面積は約6000㎡、陣立ては陶俑と陶馬は合わせて1300体余りあり、ほかに戦車、歩兵、騎兵など編成された「W」の形をした曲陣で、それと騎兵集団で構成されていますが、御者が手綱を引き、片方の手に弓を持っています。戦車集団のほうは、4頭立ての馬車一台に御者が1人が付き、両脇の兵士二人は武器を手にして、戦車に登る姿勢を示しています。
先頭部隊は弓弩兵器を携えた射手で、右側に戦車、中央には歩兵と戦車が交互に左側には騎兵が配置されており、最後の方は騎兵と歩兵をいった陣容の混合部隊です。この陣立ての形は攻めることも守りことも自由にでき、秩序が保ちやすく、攻められやすい弱点がありません。
兵馬俑三号館
三つの兵馬俑館中で唯一発掘が完成したのが三号館です。三号館の面積は376㎡の凹字型となっており、規模として一番小さいほうですが、地下の大軍を統帥する指揮部です。ここからは馬車一台、馬、武士の俑、それに青銅製兵器が出土されています。
大清真寺
現在西安には6万人の回民族イスラム教の教徒がおり、この民族の人口は西安における40の少数民族のトップを占めます。したがって、西安にはイスラム教徒の宗教活動の場所である寺院―モスクがたくさんあります。清真大寺は鐘楼の西側の鼓楼のすぐそばにある化覚巷にあり、西安に住むイスラム教徒の宗教活動の中心です。寺の中に保存されている石碑の記載によれば、この寺は唐の742年の建立ですが、明代の1384年に大修理を行われました。
寺院は楼、台、亭、堂の四つの部分に分かれ、敷地は一万二千平方㍍、建築面積はやく四千平方㍍、ほぼ完全な建築群で構成されています。壮観なドームや尖塔、モザイクなどを特徴とするアラブ式のイスラム寺院とは異なり、清真大寺の造りいぇ装飾は伝統的な中国式です。その特徴は塗装された梁や柱の彫刻を持つ中国特有の楼に色濃く見られます。
前院には高さ9mの瑠璃屋根、異角飛縁な木牌坊があります。第二院には石碑が一ヶ所あり、石碑には明代、清代この寺を修復したことが記載されています。第三院の中央に省心楼という建物があります。ここは礼拝の時、回教の僧侶が白い帽子を振って、人々を召集する場所です。第四院は礼拝大殿とも呼ばれており、信者は毎日5回、ここで西に向かって礼拝します。礼拝の前にシャワを浴びる習慣があります。大殿の面積は1300平方㍍、1回千人以上の礼拝式ができます。礼拝殿の周囲の壁はイスラム教の伝統的な装飾芸術を採用して、唐草模様の間にアラビア文字がたくさん刻んでいます。この寺は全て中国のイスラム教の伝統的な様式によって作られたもので、その特徴で楼、台、亭、堂四書類を形成しています。また、寺の建物は全部対称しています。
人々の生活習慣と風俗などが民族によって異なることはいうまでもありませんが、特にイスラム教の寺院では男女が同席せず、タバコも禁止されています。
ムスリムは豚肉もお酒も口にせず、彼らが食べる肉は主に羊肉と牛肉です。
結婚式は午後、新婦を迎え、翌日の朝に行います。聖典コーランを読む、メッカに生涯を誓います。女性は他の民族と結婚しませんが、男性は異民族と結婚できるという習慣があります。
葬式の時も読経します。棺は使わず、28mの木綿の織物で遺体を包んで埋葬します。
回民族の朋装は漢民族と変わりませんが、年配で回族意識の高い男性は白いフチのない帽子をかぶる習慣があります。
碑林博物館
碑林博物館は、西安の南城壁のすぐそばにある孔子廟遺跡の場所に建てられていて、その敷地面積は3万平方㍍、「西安碑林」と「石刻芸術」と二つの部分からなっています。
皆さん、ご存じのように中国の正門は一般に南に向いていますが、碑林博物館はの正門だけは東に向いているのはなぜでしょう。それは孔子廟には必ず西と東の門があり、これを「礼門義路」と言って、いわば「礼儀の門」という意味があります。
さて、まず、正門に入りますと城壁と向かい合って「孔廟」の大きいな文字が見えてきます。それから、目の前に鳥居型の門が見えますが、これは「牌楼」ともいい。功労があった人の徳をたたえるために建てられたものです。更に、もう一つの門をくぐると中央に小さい道があり、その両側に馬をつなぐ「杭」があります。これは明、清時代からのものと言われ、これらの杭は、昔、この地方の大金持ちや官僚の邸宅の門にあったもので、訪れた実の馬をつなぎとめるものでした。なお、石柱の頭部には、邪悪を鎮め、縁起の良い動物や人物のデザインがほどこされております。もうちょっど足を進めますと、東西の方向に亭が見えてきます。東の亭には、大きいな種が置かれていますが、この鐘は711年、唐時代の景雲2年に造られたもので、「景雲鐘」と呼ばれています。この「景雲鐘」は銅で鋳造され、重さ6トンもあり、表明に凸凹の乳首のようなものがついていますがこれは鐘の韻律を調整するもので、種に音色はまるで鳳凰の鳴き声のようとも言われています。
西安碑林、総数が2千基にのぼる「碑林」は文字通り石碑は林のように立ちならんでいるところからこのように名づけられました。碑林は歴史的にも芸術的にも価値が高く、中国最大の「石の書庫」とも言われています。ここで展示されているのは漢時代から唐、明、清時代にかけてのものまで、ここで注目されますのは、特唐代の有名な書道家が書いた書道作品です。
皆さん、目の前に「碑林」の文字が見えてきましたね。これは中国の民族英雂、林則徐が書いたものです。ここに碑林の最大の石碑であります「石台孝経」が展示されていますが、「孝経」とは、孔子の弟子曾参が編集した親孝行について書かれた本ですが、この石碑には「孝経」の内容だけでなく、唐の玄宗李隆基が書いた解説、序なども刻まれています。なお、石碑は高さ約6m、頭部、碑文、台座の三つの部分からなり、台座は三層で、その上の石碑は四つの石からなっています。頭部には生き生きとした蔓草や縁起の良い動物の線刻が刻まれていますので、ご注目ください。
第一陳列室 ここに展示されているのは「開成石経」です。114の石碑の両面に儒学の経典13経に全文が刻まれています。「開成石経」は唐の文宗の開成2年に立てられましたが、その石碑も戦争や自然災害によって大きいな被害を受け、40余りの石碑のうち、壊れた部分に文字を今度は前より小さい石碑に刻まみこみ、1588年には「開成石経」の傍に置くようになりました。いずれにしましても、これらは我が国でただ一つの完全に保存されている石刻経典といえます。
第二陳列室
この陳列室には、唐代の有名な書道家がかいた石碑で、後世の書法の手本となったものばかりが展示されております。初唐の欧陽詢が書いた「皇帝誕碑」、その息子の欧陽通の「道因法師碑」、顔真卿の書「多宝塔碑」と「顔氏家廟碑」、それから、晩唐の柳公権の作品「玄秘塔碑」などがあります。「大唐三蔵聖教序碑」は長安の弘福寺の和尚懐仁が王義之の書を集めて作ったといわれる「千金帖」です。また、ここには、大書道家の大作のほかに、古代ローマからキリスト教が伝来したことを伝える「大秦景教流行中国碑」はよく知られています。碑文は、中国とシリア両国の文字で書いてあり、唐王朝と外国との交流を研究するうえでも、貴重な資料となるものです。
第三陳列室
ここで篆書、隷書、楷書、行書、草書の書体で刻まれた石碑が展示され、中国文字の変遷を理解するには格好の場となっております。碑林の石碑の中で、最も古いものは「漢曹全碑」です。これは後漢の曹全が隷書で書いたものです。また、「千金文」は昔から児童の啓蒙書となってきました。
石刻芸術陳列室
1963年に建てられた石刻陳列室は、陝西省各地に散在していた前漢時代から唐代までの墓石と宗教的な石刻作品70点余りと集められ、陳列室には石棺、仏像、石刻の動物などの貴重なものが展示され、中には、丸彫り、浮彫、線彫りなどの石刻があります。なお、「牛耕図」は後漢時代の画像石の代表なものです。そして、唐の太宗李世民の愛馬を浮彫した「昭陵六駿」は唐代石刻芸術の代表的な作品として評価が高いです。
陝西歴史博物館
陝西省歴史博物館は古都西安にふさわしく、唐代の様式を取り入れた堂々たる建物の国立博物館です。西安の南に位置しており、敷地面積7万㎡です。所蔵する文化財は11万3千あまり、陝西省から出土した周、秦、漢、唐時代からの文化遺産です。展示されているのは、その中から選ばれたきわめて稀なものばかりで、約3,000点余りです。すべてのものが一品ぞろいです。展示室の面積は1100平方㍍、建物は代表的な唐代の宮殿様式で、『中央は殿堂、四隅は高楼』という伝統的な構造になっております。
展示品 館内に入って、まず目につくのは、大きな石に獅子ですが、これは則天武后の母親の墓 順陵の獅子に模造品です。
第一展示室は、約115万年前の旧石器時代、藍田猿人から始まっています。ここに展示されているのは、旧石器時代や新石器時代の代表的な文物で、先史時代の人々の生活ぶりを現しています。
現在、確認されている最も古い王朝は殷です。殷代には占いため亀甲と獣骨に刻まれ文字があります。これを甲骨文字といい、漢字の最も古い形になっています。周の時代、特に青銅器の製造と使用が盛んで、青銅器が精巧なものになっていた時代なので、「青銅器時代」をされています。青銅器は銅と錫と合金で、色が青黒いため「青銅器」と呼ばれるようになれました。博物館に展示されている青銅器は、祭礼の楽器、生産、生活用具、实戦兵器などがあります。デザインの美しさ、銘文内容の重要さなど、世界美術史上も貴重なものです。
この展示室では秦の足跡を展示しています。展示品の中には都咸陽の宮殿遺跡か発掘した瓦、煉瓦、土管などが並んでいます。始皇帝の事業の一つ、通貨の統一をあげることができるが、当時の貨幣関係の資料も展示されています。漢代の都、長安城は、中国の歴史における初めての国際的大都会で、当時、ローマ帝国より2倍ぐらい広かったと言われます。当時の冶金、製鉄技術では、既に石炭による送風式溶鉱炉を使用していました。農機具だけでなく、兵器や日用品なども大量に鋳造、生産していたのです。紙の発明はかなり古く、西安覇橋の漢墓などからも、植物繊維で造った紙が発見されていますが、さらに良質の紙が造られたのは105年の蔡倫の発明からです。ここに展示されている、1965年咸陽市の東約25キロの陽家湾で発見された彩絵陶俑群で、計2500個以上が出土しました。絢爛たる文化の華咲く唐代で、注目していただきたいのは壁画です。陵墓から運ぶ出された唐代の巨大な彩色壁画の展示が来館者を圧倒します。例えば則天武后の孫娘永泰公主の墓から出土した「侍女図」という壁画の女性を見ると胸元を緩やかに広げ、いわゆる詰襟の中国副の硬さがありません、足元を纏足ではなく大きな沓を履いています。いかにも自由闊達と見える、これらの女性たちが馬に乗るも横座りでなく、跨って大路を駆け抜け、闊歩したとも伝えられています。隋 唐展示室では金銀の器具、唐三彩、磁器、瑠璃器具など当時の繁栄を偲ばせるものがずらりと並んでいます。唐三彩は西安、洛陽一帯に分布していますが、出土数が大変少なく、大変珍しいものです。陳列室されている馬、駱駝、宮女、宦官、各種生活用品など、題材の豊富です。葬式の行列に使う冥器などでも、工芸水準は大変高いものです。
黄帝陵
黄帝陵は中華民族の始祖黄帝軒轅氏のお墓です。陝西省の延安市黄陵県の橋山の上に位置しております。「天下第一陵」と言われています。橋山、海抜980メートルです。ここは歴代帝王と有名人たちが祭るところです。
黄帝は原始時代の優秀な部落首領です。土の徳を尊ぶ(とうとぶ)、土の色は金色ので、黄帝を呼ばれるようになりました。黄帝は天下を統一して、天下共主と言われいています。後人は自分を「炎黄子孫」また「華夏子女」と呼びます。黄帝は伝説的な人物ですが、後世に「人文始祖」と称えております。
ここは軒轅広場です。黄帝陵を祭りの出発点です。軒轅広場は5000枚秦嶺天然河の玉石で敷き詰めてきて、中華民族の5000年の悠久の歴史を代表しています。目の前の池は「印池」と呼ばれて、伝説によりますと黄帝が筆を洗いところです。今、私たちが通ったこの橋は「軒轅橋」を呼ばれて、印池を横断して、全長66メートル、幅が8.5メートルで、全部花崗岩(かこうがん)で造りして、中国近代全石材第一橋と知られています。北端に95段階の石段があります。九五の尊の崇高(すこう)な地位を代表しています。
軒轅橋を突っ切ると軒轅廟です。軒轅廟は唐の代宗に建てられ、敷地面積約6666平方㍍、入りますと、左にコノテガシワがあって、高さ約19メートル、世界コノテガシワの父と言われて、遡ること、4700年もあります。
人文初祖大殿は正殿で、全廟の本館です。中には黄帝の浮彫全身の彫像があります。神棚の周囲は四つの縁起のよい動物の図案が刻まれています。左は蒼龍、右は白虎、上は朱雀、下は玄武です。
黄帝陵区は約4平方㍍、四隅は山と水、樹木が茂っています。頂上に登って、まず、石碑が見えてきて、「文武百官ここに馬をおお降りください。」が刻まれています。黄帝陵は山頂の真ん中に位置しており、南に向いて、高さ4メートル、周長約50メートルです。陵の前に「漢武仙台」が刻まれていた石碑があります。これは漢武帝が造たものです。
崋山
陝西省の華陰県にあって、西岳とも言われています。中国五岳の一つで、崋山主峰海抜2160メートルで、北は黄河を俯瞰し、南は秦嶺に連なります。崋山は「天下第一険」と言われ、雂大さと険しさで古くから中国五山の一つとして広く知られています。
東峰は崋山の奇峰の一つで、峰頂に美しい景色や「日の出」を見ることができる朝陽台があるので朝陽峰とも言われています。北峰は「雲台峰」をも呼ばれて、海抜1500メートルで、四方は断崖絶壁で、ただ1本しか山道が南側の連峰に通じていません。映画「智取崋山」はここから取材したものです、それは筆のように屹立して、千刃の断崖をなし、頂上から俯瞰すると秦川がぼうぼうと流れ、その間に渭水と洛水が龍のように曲がります。頂上には劈山救母石があり、聞くところによると中国有名な神話「宝蓮燈」の中の沈香が山を切り開いて、母親を救った物語はここで発生したと言い伝えられています。南峰はすなわち「落雁峰」崋山の主峰で海抜2083メートルもあります。崋山の最も険しい峰で、峰には深緑の松とコノケガシワ、林がうっそうとしています。東に雲を突いて架設した長空桟道があります。中峰は玉女峰をも呼ばれ、東、南、西峰に通じる要路です。
崋山は険しさが特色で「険」という文字があちこちにあります。山に至るところに断崖絶壁があり、山道は険しく景色も美しいのです。山道に沿って、玉泉院から蒼龍嶺まで多くの景勝地を見ることができます。
崋山の麓から青珂坪までの道中は風景が静寂で、谷間が鮮やかな緑色に染められて、鳥がさえずり、花が香り、泉が流れて、人々の心をゆったりとさせます。青珂坪の東からこそは本当の登山になります。ここに「回心石」の文字が刻まれた大きな石があります。これから先が崋山の危険なところです。この文字を見て体力の無いもの、肝っ玉の小さいものは引き返します。回心石を過ぎると崋山の咽喉、「千尺棟」に着きます。ここは険しい崖の小道両で、370段に石段があり、両側にあるロープを掴んで一歩ずつ登らなければなりません。「千尺棟」の幅はとても狭く、下を見ると深い井戸です。更に進むと、もっと険しい「百尺峡」に突き当たり、その後、仙人橋を通り、一段と険しい「老君梨溝」に至ります。ここは海抜1500メートル、史方は断崖絶壁で、570段の石段があり、その突き当たりは「狐孫愁」というところで、文字通り、猿でさえ困惑していて、断崖絶壁がどんなに険しいが想像できます。「狐孫愁」を過ぎると崋山の北峰に到着します。
見送り
皆さん、いよいよ西安を離れる時間が迫ってきました。もう一度身の回りをチックしてください。今から、空港へ向かいますので。
この3日間行き届かない点が多くて、ご迷惑をかけたかと思います、3日間の観光はあっという間に過ぎました。本当にお名残惜しいです。
私は皆様のお供をさせていただき、大変楽しく、いろいろと勉強させていただきした。こうして無事に快適な旅行ができましたのも、皆様のご協力のおかげです。この次、お出でになる時もぜひ私どもの旅行社をご利用ください。それまでに、私ももっと日本語を勉強しておきますので、また、ご案内させていただければ有りがたいと思います。
皆様、ここでお別れです。どうぞお元気で、さようなら。